無知は罪悪です。君子や賢者にになればなるほど、学ばなければならない。

もうずいぶん昔の話ですけれど、某企業に勤めていたとき、
先輩がこんなことを言ったんですね。
「知らないで犯してしまう過ちと、悪いと知りながら犯してしまう過ちのどちらが悪いか」
そして「無知は罪悪だよ」とも言いました。
この言葉は、何年たっても、忘れられないです。

お釈迦様が言ったという、有名な話らしいのですが、
3485303593_599e9ecb11_z[1]

こういうことのようです。
=============================引用はじめ(抜粋)

s-01-008.htm_cmp_-1----010_bnr[1]
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/s-01-008.htm

〔原文 〕    
  子曰、君子不重則不威。學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。

〔 通釈 〕
  孔子云う、「リーダーは、どっしりと構えていないと威厳が感じられず人に侮られる。だから学問をしてものの道理を弁え、意固地(野暮こき)にならないようにしなさい。友達とは誠心誠意付き合い、友情の通じない人は避けなさい。もし過ちがあったなら、見栄や面子にこだわらず、即刻改めなさい」と。

〔 解説 〕
人間は過ちを犯す生きものです。これはある程度仕方がない。完璧な人間など居りませんからね。ただ、過ちにも、知らないで犯してしまう過ちと、悪いと知りながら犯してしまう過ちの二種類がありますが、皆さんは一体どちらの方が質(たち)が悪いと云うか、罪が重いと思いますか?

刑法では、知って犯す過ちを故意と云って、知らずに犯す過ちつまり、過失よりも重いとされておりますが、人間真理から眺めて見た場合、果たしてどうですか?勿論故意であろうが過失であろうが、過ちは過ちですから、どちらも悪いことには違いありませんが、さてどっちが罪深いか?となったら、どうですか!?

答えはもうはっきりとしているんですね、知らずに犯す過ちの方が断然重いと。釈迦は弟子から同様の質問を受けた際、はっきりと答えております、「知らずに犯したる罪は、知って犯したる罪に百倍す!」と。さあどうですか?そうだ!という顔をしている人が半分、どうして?という顔をしている人が半分いますかね。

知らずに犯す過ちというのは、それが過ちであることすら分からない、つまり、善悪の道理が分からない訳ですから、反省することができません。反省することができなければ、改めてみようがありません。本人は少しも悪いと気付いていないのですから、改めようなどという気が起きないのですね。かくして本人は気付かぬまま、日々周囲に悪臭を撒き散らすことと相なる訳ですが、周りは大迷惑しますね。善悪の道理の分からないことを「無明(むみょう)」と申しますが、無明とは明き盲のことです。所謂「野暮こき」ですね。

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と云ったそうですが、一人の人間が一生のうちで実際に経験できる範囲は、質・量ともにたかが知れております。たかの知れた経験則から、道理を見極めたり善悪を判断したりすることには、自ずと限界がある。井の中の蛙のようなものですね。これを補う為に学問がある訳です。学問をして先人の知恵に学ぶ・歴史の教訓を疑似体験する訳です。だから孔子は、「学べば則ち固ならず・学問をして道理を弁え、野暮をこいちゃあいけないよ!」と云った訳ですね。
 
=================================引用終わり

無知は罪悪ですから、学ばなくてはいけません。
百歳になっても、つまり「君子」になればなるほど学びに終わりはありません。

質も問題です。
質の悪い勉強をしていても、何にもなりません。
本も新聞も読まなければいけないと思います。
テレビも雑誌も見て良い。
(学びと教育は、似て非なるものです
マスコミは悪いというのなら、学校、つまり教育の方がもっと洗脳に近くて、もっと危険)
その中で、おのずと質の良い情報が見えてくるまで、
幅広くいろんな情報に、触れなければいけない。
古いものであろうが、外国のものであろうが、最新のものであろうが・・・・・

「無明」とは、つまり今風にいうなら、
「パーソナリティー障害」、ともいえるのではないでしょうか。
お釈迦様の時代から、もうあったんですね。
「無明」の反対は「光明」
「智慧の光明 はかりなし・・・」っていうじゃありませんか。


当、ブログに足跡を付けてくださった
こらぁ~!責任者出て来~い!
http://yanagitty.blog89.fc2.com/
に、とても良い言葉が貼り付けてありました。
マハトマガンジーの言葉だそうです。
明日死ぬと思って生きなさい
永遠に生きると思って学びなさい。

img_541725_12327184_0[1]

本当に良い言葉だと思います。


上の続きです。
================================引用はじめ

s-01-008.htm_cmp_-1----010_bnr[1]

私達は、人に傷付けられることに対しては敏感ですが、人を傷付けることに対しては誠に鈍感です。態度で言葉で行動で、気が付かずにどれほど多くの人を傷付けているか、考えてみたことがありますか?

大抵の人は、自分に似た性格の人を見ると嫌いになると聞きますが、何故かと考えてみますと、自分が自分で嫌だと思うことを、その人が目の前でそっくり演じて見せてくれているからなんですね。何のことはない、本当はその人が嫌いなのではなく、相手に映し出された自分の姿を嫌いになっているだけなのです。「人のふり見て我がふり直せ」という俗諺がありますが、嫌だな!?と思う気持ちを相手に向けずに、自分自身に振り向けてみれば、少しは反省の縁(よすが)になるのではないでしょうか。

「三つ子の魂百まで(幼い時に刷り込まれた性格は一生変わらない)」と云われますが、放ったらかしにしておけば確かにその通りですが、自覚して変えようと思えば、自助努力である程度迄は変えられます。矯め直せるのです。まあ、「三つ子の魂百まで」は親の責任、「人のふり見て我がふり直せ」は自己の責任という所ですね。

===============================引用終わり


子どもの顔さえ見れば、勉強しろと怒っている、親(つまり「君子」)、多いですよね。

そういう大人に聞いてみたいです。
「あなたは勉強していますか?」
「どんな勉強をしていますか?」・・・と

大人は子どもよりもっとたくさん学ばなくてはいけません。
大人、つまり「君子」「賢者」のほうが、良くも悪くも影響力が大きいから。
永遠に生きると思えば、誰もが100歳まで子どもだから。

だから自分より若いものに「勉強しろ」なんていってるヒマはないはずなんです。

私は、そう思います。
スポンサーサイト

コメント

無知よりも考えないことのが罪では

無知よりも考えないことのが罪では?
だって人類の歴史は知識を得て発展したのではなく考えて発展したのだから。
知っていても、知識と新たな事実が対立するとき知識を優先し判断するのは理屈倒れですからね。
それだから人類と過去の日本人は大いなる過ちを起こしたのです。
そして、そういう人間たちがあの戦争を起こして枢軸国は負けました。
知識だけの理屈倒れがいかにおろかかといういい見本ですよ。
だから私は先の戦争の本当のことを日本とその国を批判する国々のように歪曲も尾ひれも付けずにしっかりと次世代に伝えていきます。
本当のことを言うことほど勇気のいることはこの世にないのですから。

  • 2012/08/17 (Fri) 11:42
  • 元・S #-
  • URL
No title

元・Sさん、

考えるということも大切ですね。
(罪が深いかどうかは別として)
これからの未来をどうしていくか、
それには考えること、想像力、創造力、
若い人たちの洗脳されきっていない、柔軟な考えに、
私たち大人(ちょっと脳が硬くなり始めたw)が
学んでいくというのも楽しいです。
素敵なことだと思います。

>知識と新たな事実が対立するとき知識を優先し判断するのは理屈倒れですからね。
まったくです。

・・・いや、待てよ・・・
「子どもや若者から、柔軟で洗脳されきっていないものの考え方を学ばない大人は、罪が深い」
という新しい名言を作りますか・・・ジョークじゃなく、マジで・・・

  • 2012/08/17 (Fri) 17:38
  • フォーミディブル #Ptq.3me.
  • URL

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する